だるまあれこれ
山縣友五郎は、1793年(寛政5年)に上豊岡村で生まれました。
山縣家は、武田信玄の二十四将の1人(山縣昌景)として活躍し、江戸時代には名主を務める家柄でした。
友五郎は若き日に人形職人を目指して、江戸や武州(埼玉県)の人形店に行き修行をしたとのことです。当時江戸では疱瘡(天然痘)が流行り病となっていました。
病に苦しむ人達にだるまは疱瘡除けのお守りとして江戸庶民の傍らにありました。友五郎はその江戸だるまに接し、郷里である上豊岡村に戻ると自らも工夫を重ね、人々の病除けを願いだるまを作り始めたとのことです。
これが、高崎だるまの起こりとなりました。
江戸時代の豊岡地域でだるまを作っていたのは、山縣友五郎家を中心とした親戚縁者だけでしたが、田町初市などの賑やかな街中でだるまを売り、脈々としてその技法が伝承されてきました。
友五郎は、生涯だるまを作り続け、1862年(文久2年)8月9日に69歳で亡くなりました。今では、友五郎のふるさとは、全国を代表する「高崎だるま」の里と言われるようになりました。
葦名鉄十郎盛幸は、通称「鉄つぁん」と呼ばれ、だるま木型彫りの名人でした。
奇しくも、山縣友五郎が亡くなった1862年(文久2年)に生まれました。
高崎だるまが今日日本一のだるまの産地に成り得たのも生涯を通じて何百体ものだるま木型を鉄つぁんが彫り続けてくれたからです。
そのおかげで、豊岡を中心として沢山のだるま職人が生まれました。かつて一番多い時には88軒の家でだるま作りが行われていました。
金沢藩士(会津藩との説もある)の次男であった葦名鉄十郎盛幸は養子に行った先で折り合いが悪く家を出て、そのまま諸国を転々とした末に上豊岡村で病に倒れ、その後村人の快方など世話になり閻魔堂で生活をするようになりました。やがて、持ち前の器用な腕で、のみや彫刻刀を振るい、だるまの型を作って見せます。それが、だるまの大産地の礎となるだるま木型作りの始まりでした。
瞬く間に木型を彫る葦名鉄十郎盛幸の名は広まり、多くの人に頼まれるようになりました。1軒の家で大から小まで50体~100体は作られたとして途方もない数の木型を生涯を通して彫ったことになります。ゆえに、いつしか親しみを込めて、だるまの型彫り「鉄つぁん」と呼ばれるようになりました。
鉄つぁんの死後、常安寺前に住む松本由松が葦名鉄十郎盛幸の型を見ては、よりいっそう工夫して木型を彫り、顔の幅も広く、背中の張りもぐっと出た福々しい丸みのあるだるま型を作り出します。
由松の作った丸みのある型は、景気の良いものとして商売をしている人たちの間で商売繁盛に繋がると大変重宝がられるようになりました。
由松は、その後いくつかの座禅達磨を彫り、その一生も葦名鉄十郎盛幸と同じく木型彫りに掛けた生涯でした。
由松の次男も父同様に型彫りをしますが、若くして他界したため、型彫り師としては、あまり知られていません。しかし、特に異色のお多福耳のだるま型を残しています。この父子の作風は、福々しい作風として、だるま職人の多くから親しまれていました。
また、由松の残した最も貴重なものは、だるまの型の寸法書です。小から大までだるまの大きさを細かく割り出した貴重な資料遺産となりました。
達磨大師は、五世紀後半から六世紀前半ごろ南インドの香至国という豊かで平和な国の第三王子として生まれました。やがて出家し、お釈迦様からの教えを継ぎ、より多くの人々にこの教えを広めようと、幾多の困難にもめげず海路はるばる中国へ布教伝導に渡られました。どのような逆境に立っても、決してへこたれず、現在の禅宗の基礎を築かれ、初祖達磨大師と言われるようになりました。
達磨大師の逸話は沢山ありますが、中国の嵩山少林寺での「面壁九年」は有名で、九年もの間ひたすら座禅を続けられました。
縁起だるまは、まさしく七転八起の不屈の精神がそのまま具わっていると言えます。
高崎だるまは、今から200数十年前の文化・文政年間の1813年~1823年の間に碓氷郡上豊岡村の山縣友五郎によって生み出され今日まで作り継がれてまいりました。その製法は山縣家の秘伝とされ受け継がれましたが、明治に入り木型名人の葦名鉄十郎盛幸が豊岡村に住み始め、だるまの木型を専門に彫り始めます。これにより豊岡地域にだるま作りを目指す者が増え、大勢の人が作り始めるようになりました。
初めは、山縣友五郎が江戸で出会った江戸だるまのお姿が始まりでしたが、しだいにその特徴は鶴、亀、松の現在の形へと変わってきました。
高崎だるまは、養蚕の発達とともに、繭の形に似た縦長の繭型だるまに形が変わってきます。上州は、昔から養蚕の盛んな地域で、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、蚕が古い殻を割って出てくることを「起きる」と言います。この言葉にかけて、養蚕農家では七転び八起きのだるまを大切な守り神として奉り続けてきたのです。養蚕の大当たりの願かけから、やがて一般家庭へと広まり、様々な願かけが行われるようになりました。
別名「縁起だるま」「福だるま」「祈願だるま」とも呼ばれる高崎だるまは、こうした時を経て郷土のみならず日本を代表する「かけがいのない」存在となりました。
「だるま」が出来上がるまでには、何十工程もの流れが必要です。繰り返し繰り返し丹精込めて作っていきます。今では、一部機械化できたところもありますが、依然として伝統の手法を守り、一つ一つ手作りによって作られています。
「へったというのは、だるまの底の部分のことです。粘土質の土で屋根瓦の土と同じものを使っています。へったの形に彫った木の型に土を入れて形を整えてゆきます。」
「だるまの形は、木型に濡らしただるま和紙を形に整えながら張ります。其の張り方は熟練していかないと大変難しいものでした。それを乾かし木型から抜き出したものが張り子生地です。」
「へったと張り子生地を貝の粉である胡粉で付け合わせます。」
「下塗りとして、だるま全体を胡粉の白色で塗ります。
「上塗りとして、赤色の塗料で全体を塗ります。」
「顔を薄い桃色で塗ります。」
「目のまわりを何回も何回もすり込むようにたんがらで塗ります。」
「きめ細かい胡粉の白色で目の部分を塗ります。」
「赤の塗料で鼻と口を書き入れます。」
「金粉を調合して目の周りを塗ります。
「両肩に商売繁盛や家内安全などの祈願文字や腹の部分に福入の文字を入れます。」
「最後の一筆となります。高崎だるまの特徴である眉は鶴、髭は亀と松を形どって描きます。」
豊岡だるまは、昭和30年1月20日に旧豊岡村が高崎市と合併する前に呼ばれていた現在の高崎だるまの名前です。今から200十数年前の文化・文政年間の1813年~1823年)の間に上豊岡村の山縣友五郎がだるまを作り始めてから合併に至るまで人々に親しみを込めて呼ばれ続けてきました。
今では、高崎だるまとして全国に知られており、「高崎だるま」としての商標登録も行っておりますので、今は豊岡だるまと呼ぶ人はいなくなりましたが、「高崎だるまのふるさと」として沢山の職人が伝統を守り継ぎ、昔ながらにだるま作りをしているだるまの町となっています。
山縣友五郎がだるまを作り始めた文化・文政年間から間もなく文政12年1829年の文献「高崎談図抄」に既に高崎の街中である高崎田町でだるまを販売する様子が版画と文章で載っています。今までこの高崎談図抄の存在とこの中にだるまの販売の様子が載っていることは全く知られていませんでした。しかし、研究者のご努力で高崎のだるまを知る上での重要な資料が発見され、ようやく高崎でのだるま市のルーツが見えてきました。おそらく、これが最も古いだるま市で、高崎のだるま市の始まりとなります。ここから、市内・県外へとだるま市が広がっていきます。
少なくとも、高崎談図抄の刊行された1829年から木戸忠太郎著「達磨とその諸相」が刊行された昭和7年(1932年)に記されている田町のだるま市の様子から考えると100年以上の間、高崎の街中である田町近辺(田町・本町・あら町)で六斎市(初市)でだるま市が行われていました。今も、もし続いていれば、190年の歴史を持つ群馬県内で最も古いだるま市となったことでしょう。
そして、その思いを込めて、高崎の街の有志が蘇らせたのが、2017年1月1日・2日から始まった「高崎だるま市」です。
江戸から明治に入り、市内・県内・県外とだるま市が方々で行われるようになり、高崎だるまは関東一円から全国に知られるようになりました。
この全国に類のない日本一のだるまの産地の生みの親は、江戸の昔、ただ一人郷里の上豊岡村でだるま作りを始めた山縣友五郎と言います。
2017年8月9日、その山縣友五郎の没後155年を迎え、私達だるま職人で作る群馬県達磨製造協同組合は、彼の偉業と功績を称え、菩提寺である常安寺で慰霊祭を行いました。
また同じく、高崎だるまを今日の大産地に導いた木型彫名人葦名鉄十郎盛幸や松本由松親子の功績も称え、高崎だるまを後世に伝える為、2018年8月9日からこの日を『高崎だるまの日』に制定する旨制定委員会に於いて決定をいたしました。
私たちは、8月9日を高崎だるまの日にすることで、これからも高崎だるまの先達の想いをしっかりと受け止め受け継いでいきたいと思います。
高崎だるまが全国に波及し、日本有数の産地になるにつれ、県・市を代表する特産品として郷土の生んだ伝統工芸品となりました。その匠の高度な技術に対して平成11年度より「群馬県ふるさと伝統工芸士」が制定されました。
また、群馬県指定のふるさと伝統工芸品として平成5年に認定を受け、県内では第1号となる地域団体商標登録を第5003697号で「高崎だるま」として全国唯一だるまの地域ブランド登録を行っています。
高崎だるまは、まさに日本を代表するだるまと成長し、海外からも注目を得るようになりました。その為、台湾(2015年2月1日)・中国(2015年2月21日)におきましても、商標登録を行っています。
全国には、沢山のだるまの産地がありまして、青森県から沖縄県まで色々な形や色合いのものがあります。顔の髭の描き方も多種多様です。高崎だるまの様な祈願だるまは自分で願いを込めて目を入れますが、初めから目の描かれたものもあります。女だるま、おかめだるま、姫だるま、などから三角だるま、鉢巻だるま、など産地ごとに特徴を持ちそれぞれの文化で描かれています。それゆえ大変奥深くて面白いものです。これを収集して並べてみると色々な日本文化に会えるとともに、その魅力にはまってしまいます。
また、だるまは、紙の張り子だけではなく、木、石、鉄、陶器、木目込み、など様々なもので作られるようになりました。
今やだるまは、日本以外でも人気が高く、欧米でもだるまを収集したり、研究をしている人が沢山います。また、海外のだるまと云えば、中国、ミャンマーでは張り子が作られていますし、台湾、韓国、ベトナム等では木彫りが多く作られています。
オリジナルだるま制作やだるま作り体験、講演など
だるまのことなら何でもお気軽にご相談ください。
027-323-2220
月曜日~金曜日 午前9:00~17:00
定休日 :土・日・祝日(その他臨時休業日)
※但し、高崎だるま作り体験やだるま展示館見学等のご予約をいただいた場合は、この限りではありません。